北京でのフィールドワークを振り返って
公共空間でのふるまい、ルールが先か、合意が先か —
北京では、公園での人のふるまいを通して、北京に住む人たちの公共性が垣間見えた。公園や広場で少し広めの場所があると、朝から夜まで人が集まってきては様々な活動が行われる。太極拳の練習をしている数人のシニアのグループ、その横ではバドミントンを楽しむ数組の人たち。やがて長細い旗を回しながら踊るフラッグダンスの踊り手たちが現れて練習をはじめる。気がつくと太極拳の人たちは姿を消していて、別のシニアたちがスピーカーで陽気なポップスを流しながらエクササイズをはじめる、といった具合だ。
東京の公園では、こんなふうに譲り合いながら様々なグループが広場を使うのは、ちょっと難しいかもしれない。大人数で音楽を流しながら広場を使ったらきっと市役所に苦情が来るだろうし、すぐ横でバドミントンをはじめる人がいたら、先にいた人たちは不機嫌になるかもしれない。そのうち事前に荷物を置いて場所取りをするようにな理、それを見た他の人が、公園を占有していると市役所に苦情が入る。やがて公園には「ダンス禁止」「球技禁止」といった立て看板が立つようになる。
また公共空間でのマナーやルールについても発見があった。北京では禁煙エリアでも煙草を吸う人をよく見かける。公園にある大きな池には「遊泳禁止」の看板があるのに、朝から数人のおじさんたちがスイミングを楽しんでいたりする。近所の人たちは昔からこの池で泳ぐ習慣があったのだから、泳ぐ権利があると意見する人もいた。現地の人によれば、公共空間でのふるまいは、ルールよりもその場にいる人たちの合意形成が重視され、止めてくれという人がいなければやっていいという思考があると言う。定められたルールに絶対従うのも1つの秩序だが、そこにいる人たちの合意が取れればルールより優先されるというのもまた、秩序の1つの形だろう。
大都市や観光都市には様々な人たちがいるので、何かと折り合うことが必要になる。多文化共生社会というと聞こえはいいが、別の秩序を持つもの同士が対立すると「外国人はマナーが悪い」といった一方的な話になりがちだ。私たちには、違うもの同士が共存するための新たな「ふるまい」が必要なのかもしれない。今回、東アジアの隣国のふるまいを比較観察したことで、社会の秩序、人の暮らし方というのは、社会の数だけ形があるのだということを身をもって感じることができた。こういう学びにこそ、旅をすることの意義があるのだと思う。