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Korean bowing, bowing customs around the world

今回滞在していたホテルは、乙支路(ウルチロ / 을지로)というエリアにあって、印刷所や工具屋、金物加工場といった、小さな工場や問屋が集まる街である。東京でいえば合羽橋や蒲田のようなエリアのような雰囲気といったらいいだろうか。

工場のおじちゃんが通う庶民的な食堂や居酒屋も多いのだが、近年では再開発が進んで閉店や移転を余儀なくされることもあり、また雑居ビルを改装してレトロだけど現代的なデザインのカフェやバーの出店も増えている。その横には再開発で取り壊されるビルがあり、そのとなりの区画には既に高層ビルが立っている。そんなエリア。

高層ビルをふと見上げて、この巨大オフィスで働く人たちは日々どんなふうにふるまっているのだろう。会議はどのように進み、上司と部下、先輩と後輩の関係はどんなものだろう、と興味が湧くのだが、実際のところオフィスに潜入して働く人たちを観察するというのはなかなか難しい。

そこで少し志向を変え、乙支路の庶民的なエリアと対照的な人たち、高級ホテルやレストランにいるような人たちはどんなふるまいをしているのかを見てみることにした。朝早くに訪れたのは、ソウル新羅ホテル(서울신라호텔 / The Shilla Seoul)。外資系ホテルだとグローバルに統一されたふるまいになる傾向が強くなりそうで、韓国資本のホテルの方がリサーチには適していると考えたのと、このホテルはオリンピックなどの国際イベントや国際カンファレンスでも利用されるVIP御用達のホテルということだったので、観察に適しているのではないかと思ったからだ。

国際カンファレンス受付での観察

まずロビーのソファに座って通り過ぎる人を観察していると、その日は宴会場で国際カンファレンスが行われることが分かった。そこで、来場者受付のところで人待ちをしているふりをして30分ほど、スタッフや来場者のふるまいを観察をした。

スタッフの人たちのふるまいについては、日本で見る光景とほぼ変わらない印象だった。まず、このイベントが国際カンファレンスのため外国からの参加者の方も多く、特に外国人向けにはグローバルスタンダードなビジネスマナーに則ったふるまいがなされていたように思う。

また、韓国人対韓国人のやり取りでも、僕の感覚としては、韓国語さえ聞こえなければ、日本なのか韓国なのか分からないくらいの感覚だった。特徴的なのはお辞儀の動作だった。このようなフォーマルなビジネスの場となると、韓国の場合でも、ゲストに対してスタッフがやや低い姿勢で話しかけたり、最初の挨拶でお辞儀をしたり、取引先や先輩?などの目上の人に対して小さく何度もお辞儀するような動作が見られた。お辞儀の瞬間をカメラに収めたかったのだが、そうすると被写体に向けて常にスマホを向けなければならずさずが難しかったのだけれど・・・。

お辞儀と名刺交換の動作

小さく何度もお辞儀していたのは、上の写真に写っている韓国人と思われる女性の3人組。右の1人が受付付近にいて、そこに左の2人がやってきて十分に近づいた時、3〜4回程度、ペコペコと小刻みにお辞儀をする。この小さなお辞儀は、最初は2人が始めたが、その後はお互いの回数やスピードが大体同じくらいになるような感じで交わされる。そして、特に立場が下だと思われる左の2人の顔には少しの笑みと恥じらいのような、複雑な表情が現れる。

そして下の写真は名刺交換の様子。どうやら左側の背の低い人が地位の高い人のようで、お互いお辞儀をしながら名刺交換をしたものの、左側の方は見るからに態度が大きく、一番左側の人は何度かお辞儀をすることで相手を気遣うようなふるまいをしていた。

こうしたふるまいを見たとき、僕にはその人たち同士の人間関係や、抱えている感情まで垣間見れるような気がした。それは、言語が分からなくても感覚的に入ってくるもので、僕の身体の中にも何か共通の作法がインストールされているんじゃないかという感じがする。

自分の身体にふるまいがインストールされている

日韓の仕事の仕方についてネットでリサーチしていた時に、韓国企業に転職した日本人技術者が書いた記事を見つけたのだが、それと近いようなことが書かれてあった。

韓国人と日本人は情緒的に驚くほど似ており、怒りや自信の無さなど気持ちのブレはすぐに読みとられてしまう。

この感じ、僕も体験したことがあって前々から気になっていた。イギリスに留学していたときに同級生だった台湾人が、ちょっと気を使って言いにくそうにしている感じが手に取るように分かってしまったり、仕事で相手の韓国人2人組が微妙な話し方からニュアンスを汲み取って歩調を合わせていく感じなどが伝わってきて、英語で話しているのにまるで日本語で話しているような、何かしらの「共通感覚」があるような気がしてくる。僕はどうやって、このお辞儀のようなふるまいを身につけ、無意識のうちにそれを行い、また他人が行っている動作を見て理解できるのだろう。自分の身体に埋め込まれたチップを知ってしまったような気がしてちょっと怖くなる。こうしたお辞儀の習慣というのはどこからきて、どのように広まっているのだろう。

アジアのお辞儀

お辞儀の分布を調べてみると、韓国や日本以外にも、タイには「ワイ」という合掌+会釈の挨拶があり、相手の立場の高さによって手を合わせる位置が違うなどの決まりごとがある。

https://www.youtube.com/watch?v=suz2X-3bmes

インドにも合掌と軽い会釈を伴う「ナマステ」の挨拶があり、一説には「アンジャリ」と言われる古代インドの敬礼作法が仏教に取り入れられ、仏教と習合してアジア各地に広まったとも言われている。

ヨーロッパのお辞儀

ヨーロッパでもお辞儀の習慣はある。イギリスのロイヤルファミリーの中には明確な序列があり、誰が誰に対してお辞儀をしなければいけないかが決まっているし、一般人がロイヤルファミリーに会うときも(王室は明確なルールはないと発表しているが)お辞儀やカーテシーをするのが通例となっている。

エリザベス女王の葬式でも、参列者が棺に向かって次々とお辞儀をする様子が報じられていて、お辞儀はアジアだけというわけでもないことが分かる。女王のお葬式という特別なセレモニーではあるが、イギリス人のおじさんたちが次々ペコリとしている様子を見ると、なんだか親近感が湧く気もする。なんだ、ヨーロッパの人たちもお辞儀するんじゃない。

お辞儀は上下関係を表す

イギリス王室でこうした習慣が残っているように、ヨーロッパでもかつて、皇帝など上位の支配者に対してお辞儀をすることは、貴族の間では一般的だった。しかし市民革命が起き、誰もが平等な社会を目指すことになって以降、お辞儀のように上下関係を表すふるまいは避けるようになったとする説もある。インドの「ナマステ」やタイの「ワイ」などのふるまいも上下関係が重視されていて、立場の低い人から高い人に向かって行うことがよしとされている。また、レストランで従業員が「ワイ」をされてもお客さんは返す必要はないといった話もあるので、頭を下げるという動作は、どの地域でも社会的立場の上下が色濃く反映されやすいふるまいと言えそうだ。

僕は日本にいても、海外に行っても、あまり頭を下げないようにしている。その一番の理由は、人によって態度を変えるという行為が嫌だからだ。特に思春期に学校の部活や大人の社会を垣間見たときに、目上の人に対してペコペコしている人が、次の瞬間、後輩に対して横柄な態度にコロッと変わったりするのを見て、なんでこの人は相手によってこんなにも態度を変えるのだろう、それって公平なやり方ではないんじゃないか、と違和感を持ったことが発端としてある。

上下関係を曖昧にするためのチャレンジ

大学を卒業して働きはじめた広告会社は上下関係がかなり厳しく、入社4年目くらいまではかなり苦労もした。その時代があったからこそ、日本社会における上下関係のふるまい方も(あまり得意ではないが)それなりに理解したつもりだ。それでも入社5年目を過ぎて人間関係に少し余裕が出てきてからは、先輩にも後輩にも分け隔てなく接するように自分なりに心がけたり、誰の発言でもなるべく公平に扱い、自分の意見はハッキリ伝えて良い議論ができるよう心がけた。日本の飲み会では年下が常に気を配ってお酒を注ぐのが一般的だが、僕は飲みたい人が飲みたい時に自分で注げばいいじゃないか〜という感じで、年下としてのふるまいを避けてみたりもした。そうやって社会的に定められた「プロトコル」から逸脱しても、比較的いい職場関係を築くことができたように思う(今思えば、僕がうまくふるまったというより、そんな僕でも受け入れてくれる上司や同僚に恵まれていたということが大きかったように思うけど)。それは、社会の中でのふるまいや、自分が生きたいと思う社会をどう作るかという自分なりの挑戦でもあった。

そうした僕のふるまいを受け入れ、賛同してくれる人もいた一方で、上下関係などのプロトコルはしっかり守って欲しいと思う人もたくさんいて、どちらかといえば後者の方が多いんだろうな、とも感じた。単刀直入に言えば「君のそういうふるまいに納得はしてないし違和感はあるけど、今はもうそういう時代だし、多様性が重要だと言われているだし、仕方ないのかなあ」みたいな受け止め方をしている人も結構多かったように思う。

僕は、自分がこう生きたいと思う社会を目指しても、それが相手が望んでいない社会だっていうことは十分に有り得る。

自分が振る舞いたいように振る舞えばいいのか

目の前に、年上として扱ってほしいと思っている先輩がいる。対等な立場で堂々と話すよりも、少しペコペコしながら敬語を使い、低姿勢で謙虚な感じで話せば、物事はよりスムーズに進むかもしれない。そして何より、相手がそうして欲しいと思っているんだから、それに寄り添ってあげるのが「思いやり」だとも言える。自分がいくら「上下関係のない」社会を目指したいと思っても、目の前の人に対する思いやりがなくなってしまうことの方が問題なのかもしれない。結果として先輩を不快な気持ちにさせてしまったら、それって逆の意味で暴力的だし、それって自分が目指したい状態なんだろうか。平等な社会を目指したいからといって「ワイ」や「ナマステ」や「お辞儀」を辞めてしまうことが必ずしもいい選択肢とは限らず、相手の尊厳を傷つけてしまうことだってある。

世の中には既に決められたふるまいがあって、小さな頃からその価値観の中で生き、それに従うことで心の安定を得ている人がいる。そう考えると、ふるまいなんて個人レベルでは何も変えられない、変えてはいけないんじゃないかという気持ちにもなってくる。

次回:プロトコルについて

最後は少し悲観的な書き方になってしまったが、次回、韓国滞在の最後の記事では、果たしてふるまいは再設計が可能なのかについて、そして僕自身がその切り口になると期待している「プロトコル」という概念について書いてみようと思う。