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開催レポート|トークセッション「中国と日本のふるまい 〜 ダンサーと歴史家の視点でふるまいを観察する」

都市に暮らす人々の「ふるまい」に焦点をあて、日中韓3カ国のダンサー計6人が身体表現の専門家として各国のふるまいを収集・比較観察し表現を探っていく、ビヘイビアプロジェクト。

2024年5月8日から14日まで、東京・ソウル・北京の3都市でのフィールドワークの一環として、中国ダンサー ウェイ・マン氏とワン・ジャーミン氏が東京を訪れ、人々のふるまいを観察しました。

東京滞在最終フェーズで実施された本トークセッションのゲストは、歴史研究者の三石晃生氏。マン氏とジャーミン氏が、約1週間のフィールドワーク期間中にどのようなふるまいに興味を持ったかを共有しながら、東京の人々がなぜそのようにふるまうのかという問いを、ゲストと参加者と共に考えながら、ふるまいの背景にある自身の日常や文化について考えました。

歴史家・三石晃生氏|歴史から紐解く日本のふるまい

トークセッションは、今回のゲストである三石晃生氏の紹介から始まりました。三石氏は制度史の中でも特に「有職故実(ゆうそくこじつ)」を専門に研究を行っています。有職故実とは、朝廷や公家、武家などの儀式や制度、習慣、風俗などを研究する学問分野で、三石氏は中国の儀礼や政治の仕組みが日本にどのように伝わり・組み込まれてきたかを研究しています。

私たちが普段無意識に行っている「ふるまい」がどのような社会の軌跡や変化を辿ってきたのか、歴史的な観点から遡りながら、ふるまいの起源を紐解いていくヒントになれば、と三石氏は語ります。その一例として挙げたのが、日本人の礼儀作法についてです。

日本人は世界的に見ても礼儀正しいとされますが、それはオリンピックが行われた1960年代に入ってからの話だと三石氏は指摘します。敗戦直後ににアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが書いた日本文化論『菊と刀』では、日本の「恥の文化」について触れ、日本人は自分たちの信条に基づいて行動するのではなく、人からどう見られるのかを気にして行動すると語られています。その後、日本はGHQに統治されますが、1960年代に行われた新生活運動の際にも、この恥の文化に根付いて礼儀正しさが確立されることになりました。

明治時代に日本人を礼儀正しいと記している外国人もいる一方、フランス人画家ジョルジュ・ビゴーは、電車の乗り方などを例にあげ、日本人はとても礼儀正しくないと描写しています。なぜこうしたねじれ現象が起きるかというと、日本人は私的空間において礼儀正しい一方で、公共空間では礼儀正しくなかったということであり、それは明治以降日本に国家の概念が生まれ、儒学の考えから西洋世界の模倣へとシフトしていく中で「公共」は国家が与えるものになり、民間で寄り合って形成した私的な公共空間における「公共意識の喪失」に原因があるのではないか、と三石氏は述べます。

ゲストの三石晃生氏

中国から来日中のダンサーが東京でのリサーチを振り返る

三石氏の自己紹介の後は、中国から日本に滞在中のダンサー ウェイ・マン氏とワン・ジャーミン氏の東京でのフィールドワークを振り返りました。

5日間にわたるリサーチでは、以下の場所を訪れました。

5月8日(水)
渋谷駅を起点に通勤電車に乗る。渋谷のシティホテルを見学
5月9日(木)
横浜の水辺の公園を見学。企業の社食で食事、ミーティングに参加。蒲田の銭湯へ
5月10日(金)
公立小学校の登校、授業を見学。浅草寺を見学。夜は新橋の飲み屋街へ
5月11日(土)
宮前のコミュニティセンター、渋谷スクランブルスクエア見学。夜は渋谷でライブ鑑賞
5月12日(日)
井の頭公園、阿佐ヶ谷商店街を見学。宮前の一般家庭の夕食に参加

印象深かったフィールドワークについて意見を求めると、本トークの前日に訪れた一般家庭での夕食について二人は触れます。

ジャーミン氏は「家庭での食事だったけれど、コース料理のように一品ずつ出てきて、とてもクリーンな状態を保ったまま進められたことが印象的でした。また父親がホスト役としてメインで話をしていたのも印象に残っています」と話しました。

マン氏は、1つの家庭の話なので、それが日本の家族を代表するものではない、という前置きをしつつ、こう述べました。「日本と中国の共通点として感じたのが、今を生きることよりも、未来のより良い自分を想像して生きているということでした。まるで脚本があるように、父、母、子どもたちが、そのロールモデルに沿って自分に与えられた役割を担い、ふるまっているように感じました。役割や脚本という2つのキーワードには、ある種の公共性もあるように思います」

また、このお宅訪問を通して、1972年につくられたジョン・バーガーのドキュメンタリー『Ways of Seeing』を思い出したとマン氏は言います。映像の中で、男は男として、女は女としてどう振る舞うべきかを演じ、人々の暗黙の了解や共通認識がどういうものなのか、どこから来ているかを紐解いた作品です。映画の中のフレーズで印象に残っている「世界が男を作った。男が女を創造した」という言葉を思い出したそうです。

ビヘイビアプロジェクト|「自分はどうふるまうのか」を考える

プロジェクトを主催する中澤大輔は、こうしたフィールドリサーチを通してふるまいを観察し比較するだけではなく、そこから「自分はどうふるまいたいのか」に掘り下げ、未来のふるまいについて表現として考えていきたいと語りました。

本トークゲストの歴史家・三石氏のほかにも、認知科学、哲学、経済地理学 / サービスデザインを専門とする研究者たちが、ビヘイビアプロジェクトの協力者として関わっています。研究者からさまざまな視点を提供してもらいながら、それを解とするのではなく、自分たちのふるまいを一人一人が考えていくことを目指しています、とプロジェクトの意義を会場にいる参加者に向けて話しました。

右から、ビヘイビアプロジェクト主宰の中澤大輔、ウェイ・マン氏、通訳の池田リリィ茜藍氏、ワン・ジャーミン氏、日本から参加しているダンサーのシマダタダシ氏

参加者とともに考える中国ダンサーからの問い「東京の人たちはなぜそうふるまうのか?」

トーク後半は、東京での滞在で中国ダンサーが感じた問いを、参加者がグループになって話し合う時間を設けました。二人からの問いかけは、以下の4つです。

1. 暗黙の了解について
電車に乗るとき、挨拶するとき。多くの場所での人々のふるまいは、暗黙の了解のもと成り立っているように感じました。それは訓練されたものなのか、自発的にそうしているのか。とりあえずこうしておけばいいという問題回避で、考えずに慣れで動いているように見えるが、そのような暗黙の了解についてどう思いますか?

2. 他人を気遣うことについて
人と挨拶するとき、会議するとき、混雑した電車に乗るとき。東京の人たちは様々なシーンでたくさんの気を遣いながら行動しており、そんな配慮が時に自分自身を苦しめたり、相手を苦しめているような気もします。人を気遣うために、あなたはどうふるまえばいいと思いますか?

3. ふたりの自分について
自分に与えられている役割としての自分と、自分がこうありたいと思う自分はどう違うのうか。それによってどのようにふるまいが変わっているのか。一般的な視点ではなく、自分の場合はどうなのか、という視点で話してみてください。

4. 国家と家族について
国/社会からの「こうあるべき」だという家族観やイメージがあります。父として、母として、子どもとして、こうあるべきだという価値観がある中で、どのようにあなたはふるまっていますか?

グループワークの後は、代表して1つのグループから出た意見を発表し、それに対してゲストやダンサーがコメントをしていきます。まずは、1つ目の「暗黙の了解」について出た意見から。

暗黙の了解は「暗黙の」と言いつつ、集団行動の中で自然と学んできたものである。そのフレームを超えると痛い目にあうという経験から、ある種自発的に行っているように見えるが、リスクを回避して自動的に行っているところもある。自発的か自動的かは簡単に切り分けられないのでは。また、暗黙の了解は「常識」と言い換えることもできる。一方で、誰もその理由を答えられなかったり、伝承や村の掟のようなものにも言えるのでは。

それに対して三石氏は、暗黙の了解については「本音と建前」が引き合いに出されることが多く、本音と建前は日本特有のものというよりも、アジアに共通するもので、それは暗黙の知を至上とする仏教文化に淵源があるのではないかと述べました。マン氏は「自律的であることは国家など組織を存続していく上では重要かもしれないけれど、あまりにも暗黙の了解の中で人々が言動を求められてしまうと、人は思考を放棄してしまわないか、ロボット化してしまわないか、という懸念があります。そうした避けられない状況下において、いかに自分自身の思いを大切に生きることができるのか、そこに余白はあるのか、ということを聞きながら考えました」と感想を伝えました。

2つ目の「他人を気遣うこと」については、当たり前だと思っているけれど、その当たり前がどこから来ているのか。気遣おうとして敢えてシャットダウンすることもある。ルールだと思っていたことが外れると意外と心地良いこともの意見が出ました。

三石氏は、外国人だと許せるという意見を受けて、日本の神道に古来からある「客人神(まれびとがみ)」について触れました。ソトの世界から訪来して、去っていく客人神をもてなす民俗文化はまだ日本に残っており、その客人神を象徴するものの一つが蓑笠であると続けます。ナマハゲの蓑笠を被る姿はソトから訪来してきた客人神そのものだと指摘した上で、江戸時代の強訴(一揆の一種)の際に蓑笠を身につけるのは、自らをそうした「人ならざるもの」に仮託し、人間界のルールを超越した「見えない存在」に姿を変えて、通常であれば咎められるべき行為を行ったという例を出しながら、日本は見る/見ないを器用に使い分ける文化があったと語ります。

そして3つ目の「ふたりの自分」について。参加者からは、与えられた役割と自分がこうありたい像は違うけれど、与えられた枠組みの中で自分のやりたいことに近づくように動いている。周りから期待される自分と自分の意志が相克する中で、絶えず揺れ動きながら行動している。という意見が出ました。

三石氏は、ふたつの自我という考えはとても西欧的であると指摘し、東洋近代の主流学問であった朱子学・陽明学における「性即理」「心即理」という、心は一つであり、心そのものが道徳行為の原則であるという考えを紹介します。ほかにも、夏目漱石の晩年頃に理想とした「則天去私」という言葉を用いて、私心を捨てることで自己と宇宙の絶対法則・天理と一体となることができると考えたように、日本には「道」を極める際に私心を捨て去り、ペルソナと自分とを滅却させ、自分が道そのものになっていく考えがあったと述べます。

それを受けてジャーミン氏は、中国でも無や空にまつわる考えやアプローチはたくさんあると指摘した上で、表現者として生きる自身について語りました。

「昔、先生から、あなたがすべての人を代表できるようになったらすごいことだね、と言われました。その当時は、どういう意味か分からなかったし、それが可能なのか疑問に思いました。長年舞台に立っている中で、いろんな役をやらせてもらうんですけれど、役になりきる際に、例えばその役のモデルになる人を見つけて模倣するということは決してしません。自分という存在の中にも、多面なる複雑性が存在しています。その役割に必要な自分のソウルの一部分を切り取って、そこから徐々にその役になっていく。それは、本来の実存の自分とその役が一つになっていく過程でもあります。同じような役を演じなければいけない時も、自分が過去にやったサンプルを複製をすることは、なるべくしないようにしています。それぞれ新しい役割として、自分のモデルケースをつくっていく。それが、色々なことがラベル化されていくことに対する、僕なりの抗う方法でもあります」

4つ目の「国家と家族」というテーマについて。参加者からは、次のような意見が発表されました。社会が求めるのは効率化。日本はサービス業が多く、国家が家族やそれを構成する個人に求めるのは、サービス業としての期待に近いのではないか。しかし、国が求める「こうあるべき」像を、個人的には気にしていないし、家族によっても世代によっても違うのではーー。

これに対し、三石氏は日本の家父長制に触れます。家長がトップにいて家族を行動させる、そして家長の上にあるものとして天皇が機能するとして家父長制をGHQが解体しようと試みた時、日本は国体の護持ができないと抗ったといいます。また、家父長制が民法改正によって廃止された結果、それぞれの家庭文化ごとに存在していた個々の職業身分や伝統による儀礼は失われ、国際プロトコルの礼儀作法や商業ベースでの応接法が席巻し、現在多くの人が行っているマナーがつくられた歴史を紐解きました。

最後に、マン氏とジャーミン氏からのコメントで本トークは締められました。

マン氏「日本人の身体のふるまいは、規範化されたものを背負っている感じがしました。同時代を生きる人として、どう新しい生活を紡ぎ直せるのか。歴史を正しく知ることで、個人の感覚から再スタートできる兆しを感じました」

ジャーミン氏「生まれてから死ぬまで、この器で生きないといけないと思っています。今日のお話を聞き、自らの意志でふるまいを変えていくことは可能だと感じました。演技性を持ちえる身体の行為、創造的な身体を自らのものにする可能性を、皆持っているのではないかと思います」

The Behaviour Project talk session #02 
中国と日本のふるまい 〜 ダンサーと歴史家の視点でふるまいを観察する〜

日時|2024年5月13日(月)19:00~21:00(受付開始18:30)
対象|社会人、学生、アーティスト、ふるまいに興味のある方は、年齢に関係なくどなたでも大歓迎です。
通訳|池田 リリィ茜藍 (日本語・中国語 / 逐次通訳あり)
定員|30名
参加費|無料
会場|渋谷スクランブルスクエア15階 SHIBUYA QWS クロスパーク
主催|architecting stories合同会社 ビヘイビアプロジェクト